第3回  目に見えない大きな力に導かれて
世界各国で演奏活動を行う指揮者・マエストロ西本智実。第3回は西本さんの自宅に場所を移し、自身のルーツの一つである長崎県平戸市生月島とカトリック教会の総本山ヴァチカンをつないだ不思議な縁について語ってもらった。

自身のルーツを辿り長崎県平戸市生月島へ

──ロシアの音楽界から認められて始まった指揮者・西本智実さんの歩みは、ヨーロッパ、アメリカ、アジア、中東へと西回りで地球を一周する旅でもあった。この「最初の一周目」を終えた30歳代で、西本さんは自身のルーツを訪ね、長崎県平戸市の生月島へと向かった。

【西本】私自身のルーツを辿りたいという気持ちは元々持っていました。けれど音楽の道を志した時、宗教音楽に根付く自分の本能的なものをあえて見ないようにしました。まっさらの状態で世界のさまざまな「民族的語法」を知りたいと日本から西へ向かう道標のもと、その決め事を貫きました。そうして一周目を終えた時、いよいよ自分のルーツを辿りたいと思うようになったのです。

私の先祖は、長崎県平戸市の生月島に生まれました。江戸時代には、潜伏キリシタンが弾圧にあったことで知られる島です。この島で先祖たちは捕鯨にも携わりました。石油が産出される前、鯨の油が燃料資源として世界で使われていたのです。幕末のペリー来航も黒船の燃料として鯨の油が必要だったとされています。

平戸の出島は表立って外国との貿易もしていましたので、都や江戸と離れた土地に感じますが様々な人々が行き交う場所でした。とはいえ、禁教の激しい弾圧期には多くの方達が殉教されました。島の断崖絶壁の先には激しい海流だけが渦巻き、このような場所で殉教した人たちのことを思うと、なんとも言えない気持ちになりました。国内であれ、国外であれ、自らの足で歩いて初めてわかることがあります。山の高さを情報として知っていても、特に厳しい自然の中では、情報を遥かに超える事があると……。

──生月島には、16世紀から伝承されてきた「オラショ(ラテン語で祈りの意味)」と呼ばれる歌が遺る。ヨーロッパの宣教師達が来日し伝えた聖歌だ。本国では時代と共に忘れ去られてしまった歌が、極東の小さな島で口伝えに受け渡され、21世紀の今も遺っている。

【西本】長い年月を経て、今ではメロディが御詠歌の様に変化していますが、そもそも「オラショ」はミサで歌われる聖歌です。その存在は祖父から聞いて知っていました。けれど、生月島に伝えられてきた「オラショ」の存在を広めるとかそんなふうには考えていませんでした。

それから数年経った2012年、初めて「ヴァチカン国際音楽祭」の招聘状が私のもとに届きました。ずっと以前、カラヤンがサン・ピエトロ大聖堂で演奏した映像を観て「遠い世界だなあ」と思っていましたので、招聘が決まった時は大変な驚きであり光栄な瞬間でした。


数百年の時を超えて復元演奏された聖歌

──クラシック音楽とキリスト教の関係は深い。中世ヨーロッパではグレゴリオ聖歌が成立し、永くカトリック教会の典礼で歌い継がれてきた。こうした教会音楽が、ルネサンス、バロック期を経て発展を遂げ、私たちのよく知るバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンらの作品へとつながっていった。そういう意味では、ヴァチカンはクラシック音楽のルーツでもある。そんなヴァチカンからの招聘に、西本さんが選んだ曲は……。

【西本】ヴァチカン国際音楽祭でのプログラムは、ベートーヴェンの交響曲第9番が与えられました。それに加え、「枢機卿による祝祭音楽ミサ」でも指揮する機会を与えられました。「あなたが演奏したいミサ曲はありますか?」と声をかけていただいたのです。ところが、私の知っている範囲では答えることができませんでした。ヴァチカンの厳格な儀式であるミサで歌われる曲は季節や時間帯によって厳密に決まっているのです。その為、聖歌ならどれでも良いというわけではありませんが、「オラショ」が今も口伝されている事だけは伝えておきたいと、話してみました。

生月島に伝えられる3曲のうち、1曲でも演奏できればいいなと思いつつ話すと、すぐに典礼担当者やシスティーナ礼拝堂担当者に連絡を取って頂き調査してくれる事になりました。もし1語でも時期やミサ内容に合わない言葉が入っていると、その曲をミサで歌うことはできませんが、と言われましたが、調査の結果、いずれの曲もその日のミサで歌われる事に問題ないことがわかり、3曲とも演奏して下さいと連絡がありました。このような古い聖歌が日本で伝承されていた事に、ヴァチカンの方達も大変驚いておられました。

──はるか昔、西洋から極東に伝えられた聖歌が、数百年の時を超えて「里帰り」を果たすことになったわけである。西本さんにも特別な思いがよぎったという。

【西本】生月島の「オラショ」をヴァチカンに戻す体験には、何か目に見えない大きな力を感じずにいられませんでした。偶然と必然が重なっただけでなく、何より口伝のみで何世紀にも渡り命の歌を紡いでこられた方達の想いがヴァチカンへ再び運んだのだと感じています。


──潜伏キリシタンを先祖に持ち、ヴァチカンのミサで演奏を行った西本さん。キリスト教への思いを尋ねてみた。

【西本】音大出身の私の叔母はカトリックの修道女で、ミサではオルガン奏者でもあります。母も先日洗礼を授かりました。私自身はまだ洗礼を授かっていません。人には様々なタイミングがあると思います。

キリスト教に限らず、宗教心が生み出した文化や、そこから連なるものに関してとても身近に感じる事があります。音楽はもちろんですが、建築、絵画、彫刻、文学……。それらに接することは趣味という単語では言い表せず、私の指標や価値観を支えるものとなっています。

──ヴァチカンは、キリスト教が生み出した美の宝庫でもある。

【西本】ルネサンス期、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ他によってあまりにも素晴らしい芸術が生み出された事に、クライアントもとても驚いたのではないでしょうか。そうした、まるで神が宿る作品を芸術家たちが生み出した一方で、後の時代には華美で装飾的なものを取り除き内面的なものへ向かう動きもありました。その時もっとも重要だったのが、バッハを代表とする音楽だったのです(注:バッハはプロテスタント教会の音楽長を長く務め、数多くの宗教曲を生み出した)。

幼少の頃から芸術や宗教に対して感じていた畏敬の思いを、生月島やヴァチカン、エルサレムを始め世界の様々な場所で再確認しています。これからもそんな旅が続いていくのだと思います。


5年目の「ヴァチカン国際音楽祭」招聘

──2013年以来、ウィーンフィルと共に「ヴァチカン国際音楽祭」のホストオーケストラの重責を担ってきた西本さん率いるイルミナートフィルハーモニーオーケストラ。5年連続の招聘となる本年は、ヴァチカン公式儀式である「ローマ法皇の名によるサン・ピエトロ大聖堂でのミサ」に加え、サン パオロ大聖堂ではモーツァルト最晩年の傑作「レクイエム」を演奏する。

【西本】1年目は、何か大きな力が作用してヴァチカンに辿り着いたと強く感じていましたが、2年目以降はそうした個人的な想いより、もう少し広い範囲に意識が向いています。今年で5年目。この5年で世界は大きく動いています。そうした時代にあっても毎年招聘して下さり大変光栄に感じています。音楽を志す一人として、ヴァチカンという場所から届けられるメッセージがあるのであれば、そこに力を尽くし捧げたいと考えています。

そのヴァチカンでの演奏に先がけ、東京と大阪で記念公演を行います。イルミナートフィルハーモニーオーケストラ、イルミナート合唱団、ソリストの歌手たちと共に、音楽を通じた巡礼の旅を見届けて頂けます事を願っています。

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